陸上競技部

「親睦会」を開催

 学習院の陸上競技部に在籍し、選手・マネージャーとして活動していた卒業生で構成されている陸上競技部後援会が平成15年12月13日、初めて「親睦会」を開催いたしました。
 当日は、霞会館にて山尾後援会会長(17高)をはじめ32名の方が集い、当時の思い出話などで盛り上がりました。また、今後も「親睦会」を開催しようという運びとなり、毎年12月に行うこととなりました。
 次回開催の際は、より多くの方々のご参加をお待ちしております。



昭和7、8、9年のインターハイで、前人未到の3年連続優勝を成し遂げる。

 日本の近代陸上競技の発祥は「運動会」からはじまったといわれる。学習院における陸上競技の発祥も、明治23年、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)が赤坂離宮で行った運動会であった。皇太子殿下ご自身も競技に参加されたという。
 その後、明治29年になって輔仁会主催の運動会が四谷の運動場で開かれた。こうした運動会がきっかけで明治32年に「徒歩部」が誕生。陸上競技部の歴史がスタートした。
 当時、陸上競技の分野では一高がその強さを誇っていたが、明治34年の駒場農科大の招待レースで海江田幸吉氏(明36旧高)が四百米で優勝し、学習院の活躍がはじまった。
 同時期、意外な人物が学習院の陸上の歴史に登場する。白樺派文学の巨頭であり、日本文学界の一時代を形成した志賀直哉(明39旧高)である。「文章の神様」と呼ばれた志賀は、意外や意外、スポーツ万能の青年で、棒高跳をはじめ、器械体操や野球などでも活躍していた。
 大正時代になると、全国陸上大会が開催されるようになり、学習院の選手も出場。第1回と2回の大会で内藤政邁氏(大5旧高)が走高跳で日本新記録を樹立して連続優勝。第3回には増田久雄氏(大7旧高)が棒高跳で、第6回と8回には伊達十郎氏(大10旧)が走高跳で優膠するなど輝かしい戦績を残した。
 こうして大正5年、学習院徒歩部は「競走部」と名を変えた。その後も学習院の勢いは衰えることなく、大正11年のインターミドルでは、低障害で山田義重氏(大11旧高)が優勝。宇佐川武雄、島津久大(以下大13中)、南部信雄、中村謙七(以上昭2旧高) の各氏も健闘し、全国制覇を達成した。
 第1回目の全国インターハイが開催されたのが大正15年。俊足で知られた南部信雄氏が、棒高跳で記念すべきインターハイ初優勝。会場の神宮外苑競技場には「大瀛の水」が響き渡り、桜章旗が大空に翻った。
 そして昭和6年、競技部の第1次黄金時代が始まった。関東インターミドルで優勝を果たした学習院中等科チームが、全国インターミドルにおいて全国制覇を成し遂げたのだ。
 その中心となった小池正英、山田貞夫、実吉安彦、福岡孝行(以上昭10旧高) の各氏が高等科に進み、第7回から9回の全国インターハイで不滅の三連覇を成し遂げてしまった。これは、永遠に語り継がれるべき学習院の栄光である。
 三連覇の主力選手が卒業したあとも、競技部の活躍は続いた。第2次黄金時代といわれる昭和15年のインターハイの優勝だ。佐久間秀明氏(昭16旧高)をキャプテンに、森田和彦、菅原皓、山本忠良(以上昭16旧高)、山尾信一、稲田植輝、田敏夫(以上昭17旧高)の各氏が出場。総得点61点を獲得し、堂々の優勝。史上最多4回の全国制覇の記録を樹立した。
 戦後、大学と新制高等科が誕生してからも、学習院陸上競技部の活躍は続いている。創部101年目の昨年には中等科陸上部が全国大会に出場し、決勝で立派な走りを見せた。「お坊ちゃん学校」というイメージに隠れた真の強さ。それは今もなお学習院のどこかに息づいているような気がする。学習院陸上競技部に黄金時代が再び到来するのも、そう遠い未来ではないかもしれない。