- 戦争で、中断を余儀なくされた弓道部。
戦後、部員たちの不屈の精神で蘇った奇跡の部は、新道場完成とともに創立80周年を迎えた
学習院で弓道が始まったのは、大正7年4月。中等科1・2年の授業「弓術正科」として行われたのが最初だ。弓道をはじめ、剣道や柔道など「武道」が授業として行われる学校は、当時多くなかった。
翌年11月には正式な弓道場が造られ、弓道部が創設された。環境が整ったこともあり、活動は活発化。大正13年1月からは、弓道の寒稽古も始まっている。
記録をみると、対外試合は大正14年1月の第一高等学校との試合が最初だ。記念すべき初試合は、大差で優勝。以後、戦績には「大勝」「優勝」「勝利」の文字が多く見受けられる。授業としても弓道を行っていた学習院の面目躍如である。特に昭和8〜16年は弓道部の黄金時代といわれ、72戦69勝。OBの津軽承靖氏が連日のように道場を訪れ、コーチとして後輩たちを叱咤激励したという。
しかし戦争の影響で活動は縮小し、昭和20年の大空襲で弓道場を焼失。終戦後に出された文部省の通達で、弓道を含む学校武道が一切禁止され、弓道部は解散を余儀なくされた。
その弓道部が昭和32年に再建に向けて始動する。大学の学生数名によって設立が発案され、2年後、「弓道部同好会」として活動を開始したのである。同年、神奈川県湯河原にて初合宿を実施。以後、毎年のように春夏2回、合宿が行われるようになった。
新生弓道部の大きな悩みは練習場がないことであった。部員たちは大塚の区営弓道場まで出かけ、日々腕を磨いていた。しかし、学習院専用の弓道場ではないため、順番が来るまで練習ができない。そこで、校内練習場の設立願書を学校側に提出、昭和35年6月に建設の許可が下りた。
建設地は、血洗の池そばの藪。当時の部員で櫻弓会会長の北村氏は、「ひどい藪でした。学校側との約束で木を切らないことになっていましたので、部員総出で下草を刈り、整地しました。でも、なかなか平らにならなくて、スノコを敷いて足場を安定させました。大変でしたが、思いの染み込んだ道場でした」と語る。
部員が一致団結した甲斐あって、1カ月後の7月には射場が完成。学内で練習に励める環境が整った。
翌々年の37年には、東京都学生弓道連盟に加盟。対外試合が活発化し、女子の部では一部に昇格するほどの活躍もあった。現在の部員は60余名。男女比は4対6と女性のほうが多い。
その弓道部が昨年、創部80周年を迎えた。また、輔仁会館隣の旧弓道場跡地には新部室棟「富士見会館」が完成。新弓道場も館内に造られた。11月26日には、創部80周年記念式典と新弓道場落成記念式典を併せて開催。来賓の島津学習院長や小倉学習院大学長、賀陽桜友会長をはじめ、100名近くの弓道部OB・現役が集まり、晴れの門出を祝った。
OB会組織である櫻弓会の活動も活発だ。現役部員への経済的援助をはじめ、毎年4月にはオール学習院の集いへの参加、6月には櫻弓会総会、11月には大学の弓道場で「射会」を開いている。現役との懇親の集いで、実技のほか現役部員による仮装大会も実施。OBが寄付した賞品がもらえるというのもユニークだ。
弓道の基本である「礼」。「礼」を尽くす、その行動は現役のみならず、部を温かく見守るOBの間でも実践されているのである。
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