水桜会(水泳部)

2009年度水桜会定期総会開催結果報告
  平成21年4月19日(日)「第23回オール学習院の集い」に合わせ同日学習院大学西1号館213教室にて開催いたしました「水桜会定期総会」の主な決議事項と本年度の活動計画をご報告いたします。
 今後も桜友会ホームページを活用し学習院水泳部のOB/OGの皆様に対し定期的に活動状況をご報告いたしますのでよろしくお願いいたします。
また、水桜会活動についてご意見ご要望等もお寄せください。

目次
水球部門ホームページ競泳部門ホームページ

1.会務報告

2.役員名簿

3.年会費について

4.21年度活動計画

5.水桜会の歴史
1)水桜会の歴史
2)大学水泳部の発足
3)大学女子水泳部の設立と松沢洋子さん
4)中等科水泳部の誕生

6.早逝した戦友への鎮魂賦
1)藤崎 健 君を偲ぶ
2)渡辺 昇 君の思い出
3)小島亢君「生蕃」のこと
4)佐藤 肇君の想い出
5)中島佐智子様を偲んで(旧姓鈴木)

1.決算報告
20年度決算
20年度収入20年度支出
年会費992,261円現役支援金572,000円
懇親会費275,000円懇親会費533,041円
受取利息2,281円運営費264,234円
  通信費122,337円
  雑費3,570円
前期繰越1,515,773円次期繰越1,290,133円
合計2,785,315円合計2,785,315円

21年度予算
21年度収入21年度支出
年会費1,000,000円現役支援金600,000円
懇親会費300,000円懇親会費300,000円
受取利息0円運営費200,000円
小計1,300,000円通信費200,000円
 -雑費0円
前期繰越1,290,000円次期繰越1,290,000円
合計2,590,000円合計2,590,000円

2.役員名簿 ※(新)新任理事
会 長渡辺正昭 42大理 事関根玲子 53大理 事阿部稔彦 14大
副会長高野 健 42大青木成夫(新)49高芝原いつき 18大
正野敬子 50大山口 玄 54大会計監査天辰獄人 42大
事務局長松村友久 47大草地直樹 59大松村妙子 48高
常務理事作山正宏 44大汐見真樹子(新)63大顧 問小島宣夫 24旧
理 事福田米蔵 44大山本玲子(新)01大加藤正躬 29大
今泉有仁 43高内田圭子(新)05大渡辺正直 29大
内田 暖  45高山中健司 07大後藤 肇  31大
小林弘芳  49大矢島嗣朗(新)07大橋保雄 31大
永田有平(新)52大藤田 隆広 09大渡辺勝彦 33大
渡邉マリ 48高佐々木藍子 11大佐々木裕子 34大
石川由美子 48高浅岡純子 12大田口知二 38大

3.年会費について(ご依頼)

毎年学習院の卒業生を輩出すると同時に、水桜会会員数も増加しております。(20年度会員総数 580人)
しかしながら、以下の通り年会費徴収金額は減少しています。
 19年度年会費  1,136,863円(銀行手数料差引金額)
 20年度年会費    992,261円(     〃   )
減少額   ▲144,602円 前項予算の通り、徴収した水桜会年会費の6割は現役学生への支援金としておりますが、現役学生が水球・競泳競技において好成績を残すためには絶対額が不足しています。
つきましては、銀行口座自動振替手続きをされていない方は、以下口座に年会費をお振込みくださいますようお願い申しあげます。
みずほ銀行 九段支店 普通預金 2134557 水桜会
年会費 男子8,000円 女子 5,000円

      (連絡先)水桜会事務局 松村友久 昭和47卒 TEL 03- 5805-9371


4.21年度活動報告 附属戦結果

 平成21年6月6日(土)10:00〜 於目白 中・高等科プールにて開催されました男子・女子附属戦に桜友会の常務理事・事務局長・理事を始め多数のOB/OGが参加し応援いたしました。
 高校生の日頃の練習成果が発揮され、男女ともに勝利しました。
 女子部では、メドレーリレー萩原さん・野田さん・相馬さん・丹羽さん(4分59秒00)フリーリレー 相馬さん・丹羽さん・塙さん・萩原さん(4分27秒93)100mBU 相馬さん(1分4秒93)の3つの大会新記録が出ました。
 来年の附属戦にも是非現役高校生の応援にご参集ください。

   21年度活動計画

 平成21年10月17日(土)13:00〜
   水桜会懇親会 於 高田馬場ビックボックス 9階

   詳細は別途ご案内いたします。
以上
 水桜会理事(ホームページ情報連絡担当) 昭和59年卒 草地 直樹
  kusachi.naoki@jp.fujitsu.com


5.水桜会の歴史

1)水桜会の歴史

 水桜会は学習院水泳部の卒業生で構成され、会員の親睦と、現役水泳部の活動支援を目的にしています。学習院大学、高等科・中等科、学習院女子大学、女子部高等科・中等科の全水泳部を対象としています。
 学習院水泳部は、昭和10年に結成されました。1年がかりで学生たちの勤労奉仕をもとに目白にプールが完成したときです。全国に数ある水泳部のなかで先輩たちの手作りの苦労によるプールを持つ学校はほとんど例がありません。
 誕生した水泳部は、学習院伝統の古式泳法「水府流」から近代泳法へ転換し昭和16年には東京高師付属中学(現つくば大付属高校)との間で第1回定期戦を開始し、また旧制高校のインターハイに参加して好成績を上げ本格的活動を開始しました。
 第2次大戦で中断したあと、昭和24年には、高等科がインカレ3部の水球で優勝し、25年に新設された大学水泳部は、関東学生の競泳と水球の両分野で26年3部優勝、27年2部優勝と連戦連勝で1部に昇格する大活躍をとげました。
 こうした水泳部の活躍を支えるため、昭和23年にOBが結集して「クラブ・ラナ」が結成され、一般学生を対象に水泳講習会などを開催して好評をえました。これを母体に正式なOB組織として発足したのが水桜会で、今日まで男女各水泳部の発展を支えてきました。
 水桜会は、平成7年春、会員175名から1,350万円の募金を集め、目白プールの温水化装置を新設し、学習院に寄付しました。時代の進歩につれて各大学プールは室内温水プールが主流となり、水球はじめ競泳の試合もシーズンが早まり、早春の冷水での練習がハンデとなってきたためです。募金はその2年前に亡くなった藤崎 健氏(昭30大卒)のご遺族からいただいた100万円を基にして会員諸氏によびかけ、昭和14年旧制高等科卒の小出英忠先輩はじめ大學、高校、中学、女子部の卒業生から広く寄せられました。この募金活動は水桜会の基盤を固めるために大きな役割を果たしました。

(文責 昭和24年旧高卒 小島宣夫)

2)大学水泳部の発足

− たった二人の水泳部 −
 大学水泳部発足時の詳細については、昭和60年に水桜会が発行した我が半世紀−創部50周年記念文集に詳しく記載されているので、ここではその一部を引用しながら概要を御紹介したい。
 大学水泳部が発足したのは1950年(昭和25年)、学習院大学が創設された翌年である。高等科水泳部には同級生が7名いたが、学習院大学へ進学し水泳を続けたのは僅か2名、私と渡辺正直君だけであった。二人とも中等科、高等科を通じて水泳部に所属していたので、大学にも水泳部を設けなければならないという使命感のようなものがあり、早い話が、二人共そのために学習院大学に進学したようなものだった。
 入学早々水泳部は創ったものの、部員二人では如何ともし難い。新設の大学だから、関東学生は当然一番下の3部から始めることになる。水球リーグ戦に参加できない我々にとっては、東伏見の早大プールで行われた関東学生の競泳だけが唯一の行事となったが、ここでも少数部員の悲哀を味あわされた。初日100米自由形予選で私は予選をトップで通過したが、リレー種目に出場しない大学は参加資格無しとの大会役員の裁定で、二人ともその後のレースを泳ぐことはできなかった。結局初年度の大学水泳部の記録は、何も残っていない。この後二人で部員獲得に奔走し、1年上の楠瀬、小杉両先輩、同期の松島が入部、部員は5人となった。
 こんな状況にもかかわらず、我々が部の将来の発展に希望と確信を持ち頑張ることができたのは、翌年および翌々年に高校から入ってくる後輩達に対する大きな期待があったからのように思う。前年の昭和24年、高校水泳部はインターハイで東京都代表として初の全国大会への切符を手に入れ、甲子園に出場した。この時我々と一緒に戦った仲間が入学してくれば、大学でも相当の成績が挙げられるはずだ。三部から駆け上がって3年後に一部で戦うという夢は、すでにこのたった二人の部員の時から我々の頭の中に出来上がっていた。
 事実、翌51年には高等科からの藤崎、佐野、久松らに加え田原が入部し、水球は三部で全勝優勝、競泳も優勝し二部昇格した。この年の水泳連盟機関紙(水泳92号)には、『三部優勝の学習院は断然たる強みを見せ東工大との一戦を除いてはいずれも10点以上の得点差を示し、今すぐ二部で戦っても上位を狙える実力を有してる。春の合同練習に最も熱心な態度を堅持した学校の一つであったことを想起すれば、当然の帰結と云って差し支えない。』と記されている。さらに52年には後藤、鏑木、高橋、花山、松石らの新鋭を加え、水球、競泳とも二部優勝一部昇格と、夢は現実のものとなった。
 最後の年、一部では立教大学一勝したのみで五位に甘んじたが、全日本では学生二位の早稲田と延長二回の大接戦を演じ、1−0で破れはしたがこの年の水球界の話題となった。3年前たった二人で辛酸を舐めた大学水泳部も、4年間を通じてまずまずの滑り出しだったと云って好かろう。
 翌年卒業試験を終え、4月1日までの自由な時間を何に使って、渡辺と二人で戦争の影響などで混乱していたOB名簿の整備にとりかかった。一部に昇格し新聞に名前が出るようになってから、知らない先輩が試合を見にきてくれたこともあり、OBの有難さを感じていたことも影響していたように思う。何とか名簿が出来上がってから、プールサイドに数人が集まりOB会の名称を考えた。私の記憶に誤りがなければ、「水桜会」の名は1954年3月ここで生れている。

(文責 昭27年大卒 加藤正躬)

3)大学女子水泳部設立と松沢洋子さん

 1956年4月4日から7日間、神田YWCAプールで、日本水泳連盟主催の下に「シンクロナイズド スイミング講習会」を開催することになった。はたして何名集まるか見当持つかなかった。物珍しさからかマスコミの取り上げられるようになったとは言え、120名程の応募者があったのには驚いた。「初期の選手はこの講習生の中から育った」これは当時、文部省の文官であり、私どもの指導者であった串田正夫先生の「シンクロの歴史」からの抜粋である。
 女子水泳部の設立とこのシンクロとは切っても切れない関係がある。講習会の初日120名集まったメンバーも最終日には10名足らずになった。その中の6名が日本初のシンクロ競技会に出場し、そのうちの3名が松沢洋子、立石佳子、(現姓:立石)、佐々木裕子(共に昭34大卒)の学習院生であった。
 練習するプールを求め、当然のことのように学習院のプールを使おうとした。しかし私達は「水泳部」でもなく「男子」でもなかった。当時プールは男子水泳部のものであった。1936年のベルリン オリンピックの団長で、日本水泳連盟のシンクロ普及部長を当時されていた松沢洋子さんの父君松沢一鶴氏の見えざるお力のお陰もあり、私達は女子水泳部員となれた。
 その頃、松沢さんはいつも走っていた。その後ろに、立石、佐々木も言われるままに彼女に従って走った。松沢さんはチーム,ヂュエットの二種目で優勝した。何時も先を見て走り続けた松沢洋子は1961年帰らぬ人となった。
 今、シンクロの会で私達は「化石」と呼ばれている。縄文時代のシンクロを経験した者として、今はすべてが懐かしい。

(文責 昭34年大卒 佐々木裕子)

4)中等科水泳部の誕生

 水桜会の歴史にも触れられているとおり、昭和23年夏に目白のプールにおいてクラブ・ラナ主催の水泳講習会が行われました。敗戦後の娯楽も極めて少ない時代であったので大勢の少年、少女が参加し、水泳の爽快さ、面白さを満喫させられました。
 昭和24年中等科が小金井から戸山の女子部構内に移転したことで目白のプールもグーンと身近になり、講習会で水泳熱の虜になった少年たちが「中等科水泳部」を作ろうと言う機運が一気に盛り上がり、その年の夏に結成されたと記憶します。部長は当然、猿木恭経先生(エテキ、日本泳法「小堀流師範」)が労をとってくださり、部員には3年生が岡村さん(名不詳)、2年に植田泰治、黒木正芳、林忠治、川原敏資、上田宏、江口公忠そして私渡辺勝彦、1年に小野寺龍二、前田兼利、佐藤肇等々の諸君が参加したと思います。
 シーズン中は午後3時過ぎ授業が終わると皆で一団となって戸山から目白まで歩いて行き、学習院の馬場わきの坂道を登ってプールに通いました。コーチは確か戸沢孝寿先輩(昭25年高卒)が行ってくださり、厳しい練習の中にも有益な楽しいお話があり、みんな生き生きと目白に通ったものでした。翌25年9月、筑波大附属中学との第一回対抗戦が行われましたが、附属には天野、小林、本郷、平野君等強豪ぞろいで惜敗したのを未だに憶えています。

(文責 昭33年大卒 渡辺勝彦)


6.早逝した戦友への鎮魂賦

1)藤崎 健 君を偲ぶ   (昭30年大卒−平成5年没)

 新制高等科から発足直後の大学水泳部の自由形と水球で大活躍し、華々しい記録、業績を残した藤崎 健君は平成5年7月27日人生の円熟期にさしかかったと言う時に惜しくも逝去された。早いものでそれから大分年月を経てしまったが、共に過ごした学生時代、特に水泳部の記憶は断片的ではあるが、昨日のことのように思い出される。
 彼は昭和20年学習院中等科に入学された。第二次大戦の終戦も間近の時で、中等科1年は栃木県日光の金谷ホテルに集団宿泊し、授業を受けるかたわら軍事教練をし、畑も耕すという日々を送ることから始まった。終戦後も引き続き沼津の遊泳場に移り、その後は小金井の仮校舎に通学する等水泳部とは縁のない状態がつづいた。
 高等科1年になり目白に戻って来た4月に彼をはじめ1年生は水泳部に入部することとなり部員生活はこの時から始まることとなる。
 最初から「ものになっていた」と言うか、彼の泳ぎは実にバランスがとれていて短期間の内に長足の進歩を遂げ毎日にように自己新記録を出すような状態が続いた。高等科ではインターハイの入賞、甲子園出場、国体男子八百米リレー東京チーム代表等輝かし活躍を見ることができる。
 昭和26年大学入学後は小島監督の下に、渡辺、加藤先輩を中心に競泳、水球共に関東学生三部優勝、27年には二部優勝、一部昇格と輝かしい時代を迎えることになるが、彼は特に百米自由型において抜群の実力を発揮し、29年関東インカレ百米自由型優勝等の栄誉に輝いた。
 水球部門でも28年全日本で当時最強チームの一角早稲田と互角に戦い、惜しくも準決勝進出を逃がした事が思い出される。
 以上断片的ではあるが学生生活を彼と共に過ごし、存分に青春を謳歌した記憶は当時の先輩、後輩と共に何時までも記憶に残ることだろう。

(文責 昭30年大卒 佐野順三)

2)渡辺 昇 君の思い出   (昭32年大卒−平成10年没)

 渡辺 昇君という呼び名は、なじみがない。彼はコロスケまたはコロという名前ですべて通用していた。したがってこの文章でもコロスケということで統一させていただく。
 彼が水泳を始めたのは高校1年の時に私たちの学校に編入してきた時からである。水泳部員全員が所属していたホームルームに彼が入ったと言う偶然から部員となった。
 ところが、泳ぐにつれてだんだんに頭角をあらわしてきた。種目はフリースタイルの中距離。特段に足首が柔らかく脚力に秀でているとか、腕が強いと言うことはない。要するに、バランスがいいのである。みるみる記録を伸ばした。とは言っても高校の時は、100Mで1分10秒を多少切る程度であったと記憶する。
 しかし、1953年学習院大学に入学し、水泳部に入ってから一段と記録が伸びた。当然のことながら、バランスの良い泳ぎに力強さが加わった。私が思うのに、水泳を始めるのが遅かっただけに大学でも成長が続き、その才能に磨きがかかったのであろう。大学3年の関東学生選手権水上競技では、400Mフリー5位5分14秒4、200Mフリー4位2分22秒6、その他200Mリレー、800Mリレーと計4種目で得点を稼ぎ、日本学生選手権水上競技へ学習院が2回目の出場を果たす原動力になったのである。(ただ日本学生選手権に出たものの、100M1分3秒4と言ういい記録を出したに拘らず予選落ちで、やはり全国レベルでは及ばなかったが)
 競泳のほか水球では、1954・55年関東大学一部リーグ戦でフォワードでポイントゲッターとして活躍した。
 以上がコロスケの水泳での活躍振りであるが、水泳以外に彼の手腕を発揮したものに「営繕」がある。コロはプールサイドの小屋の上に登り、風呂の煙突や屋根の修理を軽々とやってのけた。それが長じては芙蓉建設株式会社という会社を立ち上げる事となり、彼の生業となった。
 終わりにコロスケのお葬式で彼の弟さんが謝辞を述べたが、その中に「兄の生涯で一番輝いていたのは水泳をやっていた時だと思う」とあった。 まさに至言であろう。     合  掌

(文責 昭32年大卒 荻野浩)

3)小島亢君「生蕃」のこと   (昭28年高卒−平成10年没)

 小島 亢君は私と同じ年齢ですが何故か1学年下であった。水泳部での付き合いは僅か二年間でしたが思い出深く忘れ難い。
 彼は1500M自由形が得意種目で、はっきりとは記憶していませんが十八分台の記録が残っている筈です。筋骨逞しいと言うより内臓が強く循環器の性能は素晴らしい物でした。自分の経験では400Mでも後半はスタミナ切れを起すのに生蕃の泳ぎは疲れを知らない。
 当時「昭和二六年」付属戦で一度も勝てなかったが何とか一泡吹かせたいと謀議し、選手の出場制限を無くす提案をした。付属のOBは負けた事が無い為に多寡を括って気楽に了承。
 いざ試合を開始すると、「生蕃」が自由形、私が背泳で次々とタイトルを奪った。明仁皇太子も帽子を振って「フレーフレー学習院!」と熱を帯びて来た。試合中に堪らず付属OBからルール改正申し出が入り紛糾した。
 結局当方が折れて従来通りのルールに戻して試合続行、結果は惜敗に終わる事になった。

(文責 昭31年大卒 後籐肇)

4)佐藤 肇君の想い出   (昭34年大卒−平成6年没)

 水泳部に、佐藤 肇(通称オジ)と言う男がいた。平泳ぎの選手で決して速くはなかったが、何を考えているのか分からないトボケたところがあり、何か安心出来る雰囲気を持っている男であった。
 高等科3年の時は主将で連戦連敗の附属戦に、その年は計算上勝てる年であったが、400米混継泳で平泳ぎとバタフライの順番を間違えて泳いでしまい失格、勝てる試合を失った。因みに、平泳ぎの泳者は佐藤 肇だった。皆は口惜しがった。彼も口惜しかっただろうが、「シャーネーヤ」の一言で何も言わなかったのを今も覚えている。
 僕は大学では水泳を止める積りでいたので、春の下加茂合宿には参加しなかったが、彼は相変わらずのトボケで、自分のことは何も言わずに合宿に参加していた。水が好きだったのだろう。僕も何時しかつられて泳ぎを続けることになった。
 大学に入ってからは水球が主体となったが、おトボケは変わらずで甲賀流と称しては定められた練習量を適当に誤魔化していた。それでもゴールキーパーとしての力量は水泳部歴代一、二を争う存在であり、関東学生リーグでも結構注目されていたと思うのは褒め過ぎか。僕らはゴールを安心して彼に任せ、水球を楽しんだ。
 そんな彼が或る夜、黒メガネで待ち合わせのバーに現れた。目蓋が異様に腫れ上がっていた。それから間もなく難病の「膠原病」と診断されて還暦を待たず亡くなってしまったのが残念でならない。存命であれば惚けた顔で下らない話が出来ただろうに。
 ご冥福を祈る。

(文責  昭34年大卒 齋藤善文)

5)昭和42年大学卒業 中島佐智子様を偲んで(旧姓鈴木)

 4月28日、一年後輩の佐久目さん(旧姓大竹)から電話で、「"常盤会だより"の物故者名簿に、中島佐智子さんが載っておられるのですが・・・」と、言われ、あわてて開いてみると、驚天動地!ありえない!どうして!しかも、昨年の9月10日に亡くなっておられるなんて? 本当か確かめたくて、丁度久しぶりに60過ぎて同学年の男女で集まろうと企画しておられた作山さんに電話し、尋ねました。
 作山さんもご存知なく、驚かれている様子。2年前、鈴木先輩の北軽井沢で経営しておられたお店へ作山さんご夫妻が訪れられた時は、ご主人様が亡くなられてお一人で切り盛りしておられたそうで、いずれ東京町田の息子の所へ帰ると言っておられたそうです。
 私どもも60歳を越え、それぞれに時間も出来たので、鈴木先輩のお店へ行って驚かせようと思っていたところでした。常盤会の理事の京極さんにお尋ねし、どこから知らせが入ったか、75回の藤井さんに伺っていただいたのですが、ご存知ないようでした。
 44年前、私は、大学に入学すると間もなく、幼少時に芦屋の浜で、真っ黒になって遊んでいたので、いつでもプールで泳げる水泳部に入部したいと思っていたところ、女子水泳部のキャプテンで、三年生の鈴木佐智子先輩と出会い、なんと素敵な!シンクロで鍛えられたプロポーション、そして大変な美女、水の精が現れたようでした。
 鈴木先輩は、当時シンクロナイズドスイメング(以下シンクロと呼びます)では、日本一と聞いており、現在のシンクロの草分けのひとりと言われた方です。
 私は、恐れ多くも若気の至り、一生懸命ついていけば、シンクロが出来、鈴木先輩のような素晴らしいプロポーションもと、ワクワクと入部しました。
 ところが、海で泳いでいたとはいえ、シンクロは相当な泳力がないと出来ない、しかも、グループ全員の泳力が揃わないと無理なスポーツです。まずは、泳力を身につけなさいと、おっしゃられ、4種目の基礎の泳ぎとインターバルの練習から始まりました。
 鈴木先輩の泳ぎは、さすが白鳥が水上をスイスイと泳ぐがごとし、水しぶきをたてることもなく、美しく泳がれます。ため息のつくような泳ぎです。男子水泳部の方々もあこがれていた方も多くおられたと思います。
 結局、私達はシンクロにはほど遠く、競泳の練習が主流となり、一応関東大学競泳選手権に種目別やメドレーで出場もしました。それでも、シンクロの思いは捨てがたく、我々の担当学年の3年の合宿で、一曲「アマリリス」を全員で仕上げた時は大変うれしかったことを覚えています。
 余談ですが、当時学習院大学もシンクロを始めたとどこからか聞きつけて、ホテルニューオータニからエキジビションをと依頼された時は、鈴木先輩の母校という事で期待されたのだと苦笑いしたことを覚えています。
 鈴木先輩!これから人生の先輩とし、女性として近々お会いして昔話をさせていただきたいと思っておりましたのに、しかも亡くなられて半年以上たっておられたとは言葉もございません。
 大変お世話になり、青春時代といえば、水泳と共に鈴木先輩のお顔も必ず浮かんで参ります。にもかかわらず、大変ご無沙汰してしまいましたこと、心よりお詫び申しあげます。
 今年の命日には、皆さんで、お墓参りさせて頂きます。
 鈴木先輩なら、あちらでも存分にシンクロをなさっておられましょう。
 ご冥福をお祈りいたします。 合掌

昭和44年大学卒業 古内あい子(旧姓若林)