学 習 院
学習院創立125周年を迎えて 写真でたどる125年の足跡

学習院広報 平成14年12月1日発行第69号より抜粋

学習院創立125周年を迎えて

 平成十四年十月、学習院は創立一二五周年を迎えました。明治十年に東京神田錦町に「学習院」として創立されてからちょうど一二五年になります。
 さらに前身となる京都学問所が弘化四年に開校された年から数えますと一五五年になります。
 明治・大正・昭和、そして平成と本当に激動の時代でした。大震災、空襲、そして戦後の混乱など、学習院は度重なる危機に直面しましたが、それらを乗り越えて、長い歴史と伝統が刻まれてまいりましたことは、大変素晴らしく、学生、教職員のみなさまとともに喜びを分かち合いたいと思っております。


専務理事 池田浩規

 さて来る十二月一三日には、本学ゆかりの大勢の方々にご列席をたまわり、「学習院創立百二十五周年記念式典」を盛大に挙行いたします。
 これまで多大なご支援とご協力をいただいたみなさまに感謝申し上げるとともに、「これからの学習院」をご披露させていただきたいと考えております。
 学習院は初代大学長の安倍能成先生から「正直であれ」「精神的貴族であれ」と教えられてまいりました。この精神も、この素晴らしい学舎であればこそ今に伝えられているものだと思います。そして教育目標である「ひろい視野」「たくましい創造力」「ゆたかな感受性」に一歩でも二歩でも近づけるよう学生はもちろん、教職員も一丸となって歩んでいければと思っています。
 次項では、学習院の歩みが写真で見られるようになっています。概略的なものではありますが、空襲後の目白校地の写真など見るにつけ、どれほど大変であったか、その苦労が偲ばれます。焼失した校舎を前にどんな思いが交錯したことでしょう。一二五年という年は通過点に過ぎないかもしれませんが、この一二五年を営々と築いてきた諸先輩方のためにもより素晴らしい未来につながる大きな通過点にしたいと考えております。
 百二十五周年にあたっては八十四ページの記念誌を編集いたしました。この一二五年間の学習院の歴史が大変分かりやすく、また詳細に記述、表現されています。
 歴史を学び、よりよい未来を一人一人が見つめていければさらに素晴らしいものが開かれていくものと確信しております。記念誌の後半部では、学習院の新長期計画についての概論から、教員、研究推進のための主要課題などが分かりやすく整理されて載っております。今後十年間にわたる基本の方針であり計画です。学習院に関わるみなさまと力を合わせ具現化してまいりたいと思っております。

学習院創立125周年

写真でたどる125年の足跡 1847〜2002

1847
京都御所・建寺門(日御門)前の学習院跡地。弘化4年(1847)、公家の教育機関として京都に設けられた。漢学や和学の講義が行われ、主に15歳以上40歳以下の公家の志願者が受講した。設立後、欧米の艦船が来航して開国を要求、尊王攘夷運動が活発になるが、学習院はその一面集会所の役割も果たした。
1849 1877 1883
勅額 嘉永2年(1849)年に孝明天皇より下賜された。「論語」冒頭の「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや」が命名の典拠。明治10年(1877)の学習院開業の際、明治天皇よりあらためて下賜された。 明治10年、東京府神田錦町に華族学校として設立され開業式が挙行され、明治天皇より改めて「学習院」として下賜された。 校舎は華族の出資金と下賜金により建てられた。小学、中学で構成され、修業年限は8年。いわゆる海軍士官型の制服が、明治12年に日本初で定められた。 学習院の位置を示す地図(明治16年)。 左手には東京大学がある。現在の住居表示でいうと「千代田区神田錦町2丁目・3丁目の一部」となる。
1885 1890 1894
明治18年、華族の女子子弟のための官立学校として華族女学校が設置された。 写真はその開校式。皇后陛下の前で校長谷干城が式辞を読んでいる。明治39年に学習院に併合され、学習院女学部となる。 課外活動の母体組織「輔仁会」の雑誌として明治23年に「輔仁会雑誌」が創刊された。明治30年代には、後に「白樺」派として活躍する武者小路実篤、志賀直哉、有島生馬らの文章が相次いで掲載された。 華族女学校の幼稚園児募集広告。 (明治27年3月15日付「東京日日新聞」)右は当時の女学校の生徒。
1899 1907 1908
神田錦町から虎ノ門を経て、四谷区尾張町に校舎が移転。明治27年の地震により大きな被害を受ける。目白に移転することが決まるが、初等学科は四谷にとどまることになった。 明治40年、乃木希典は第10代院長に就任し、大正元年9月の死に至るまでその任にあった。目白移転後、総寮部に起臥し、学生と寝食を共にした。 明治41年、建築に3年を要した中・高等学科の目白新校舎が完成した。正堂のほか、特別教室、第−・第二および高等学科の教室、6棟の寄宿舎などが建設された。目白移転を機に全寮制が採用された。写真は正堂の裏側、学生の出入り口があった。
1927 1945 1946
大正12年、関東大震災が発生し、目白校舎も大きな被害を受けた。その後復興事業が進められ、昭和2年には理科特別教場、昭和5年には中等科教場が完成した。写真は大正期の目白校地。手前が東。 現在の北グランドに位置に教室があった。 昭和20年4月13日夜半から翌未明にかけての空襲により、目白の学習院は正堂・本館など、木造校舎の大部分を焼失した。 安倍能成は夏目漱石の弟子としても知られる哲学者で、第一高等学校長・文部大臣などを経て、昭和21年から41年まで第18代学習院長をつとめた。昭和24年には初代大学長にも就任。厳しい財政状況の中、奔走して、その後の発展の礎を築いた。
1949 1952 1960
昭和24年、新制の大学が設置され、大学開講式が行われた。入学式を兼ねた開講式は本館の前で挙行され、新入生の宣誓などが行われた。壇上は訓辞する安倍院長。 昭和27年9月、第1回大学祭が開かれた。 大学単独の文化祭で、講演会、演劇、コーラスなどが催された。輔仁会文化祭とは別に開催され、昭和31年まで続いた。 昭和35年に竣工した本部棟と中央教室。 中央教室は高さ25m、1編の長さは30mで、"ピラミッド校舎"と呼ばれた。 その左が本部棟。本部棟は東2号館の建設にともない平成3年に取り壊された。
1873 1978 1979
昭和48年12月、法学部・経済学部研究棟(東1号館)竣工。それまで北1号館におかれていた両学部の研究室・図書室が収容された。 昭和53年9月には学習院創立百周年記念会館が竣工した。正堂、小講堂、会議室、父母会・桜友会・常磐会の事務室などがある。 理学部研究棟(南4号館)が昭和54年4月に竣工。棟内には各学科の研究室・実験室・図書室などがある。
1979 1993 1993
文学部研究棟(北2号館)が昭和54年4月竣エ。棟内には各学科ならびに教職課程の研究室・図書室・事務室、言語共同研究所、文学部および史料館の展示室などがある。 平成5年4月、大学法学部・経済学部教育研究棟(東2号館)が竣工した。地上13階建の棟内には、法学部・経済学部の教員研究室、法経図書センター、院生研究室、演習室、自習室などがおかれている。 本部・大学教室棟が平成5年12月に竣工した。地上6階、地下1階の建物で、学生ホール・書店・受付、地下1階と地上2・3階は教室、4〜6階は法人および大学の事務部門などとなっている。
1994 1998 2002
「山路ふみ子記念国際文化センター」(女子大学7号館)。平成6年12月に竣工した5階建てのこの建物には、教室、LL教室、学長室、事務室などがある。 中等科・高等科の校舎は平成10年9月に竣工した。地上5階、地下1階建てで、ホームルーム、コンピュータ教室、特別教室、教員室、事務室、保健室、売店などがある。 平成14年11月竣工した大学新教室棟(西2号館)。西1号館と黎明会館の間に地上6階、地下2階の新教室棟を建築、棟内には教室(模擬法廷教室含む)のほか、学生ホール、自習室、トレーニングルーム、保健室などがある。